教育とは、学ぶ力を養うこと
1985年ごろ、教育過程を受講していたが、まず、教育とは、知識の付与でなく、教育を受けるものの学ぶ力や考える力を養うことと、定義付けられた。この観点から考えると、教科書には、誰かの下した結論のみ書くことは、意味が無いばかりか、教育の阻害要因にもなりかねない。結論は、あくまでも、ある観点で導き出されたものであり、他の結論がない訳ではない。どの結論が採用されるかなどの判断そのもののプロセスや存在を、理解することこそが、教育の本質であろう。
ここ1ヶ月で、日本国内のメディアを騒がせている教科書検定の問題でも、、、
、、、教科書には、もっと何故、そのような結論になるのか、他の解釈、結論はないのかなど、正確に、状況を把握する能力を養うための記述にならないのかと、思うわけでです。
例えば、韓国、中国の論点も、正しいこと、正しくないこと、相互に意見が異なる点などが整理され、可能ならば、定量的に説明がなされるれば、判りやすいこと他ならないのであろう。まあ、定量的にしても、著者の主観が入るので、公平とは言えないが、状況を理解するための方法論を、そのサンプルとして、教育を受ける者に理解させることが肝心なところだ。
あと、教育課程には、狼少年のケーススタディもあって、幼児期に、仕込まれた教育は、一生、取れないことも判っている。この時期、人間として、最低限、生きることに必要な情報(情緒、危険回避、躾け、コミュニケーションなど)が、仕込まれないと、人間として、振舞わない、人であって、人間以外の存在と化してしまうのである。
最後に、私が、教員になることを、やめたのは、教育指導要領を守ることが、必須であるという知ったからである。とてもでないが、中間管理職よりも、ストレスが溜まるだろう立場だ。あと、教育の改革を、叫んで、教員志望の方がおられるが、それは、誤りである。教員は、基本的には、行政執行をする立場の職にあって、教育指導要領(言い換えれば、業務指示書)に従って、仕事するものである。従って、教育の改革は、政策を決定する立場にある文科省や政府の立場で、仕事ができるところに就職することが、最低限、必要と思われる。政治家からの影響も大分大きく、1年に1回ほど、選挙対応で、右翼よりの話題が、メディアを騒がせるなどあり、施策を決定する機関に就職したとしても、理想の追求は難しく、組織として、大きく舵を取るような体制も必要かもしれない。
1985年ごろの教育課程で、読まされた教育指導要領では、愛国心を教育の内容の根源して説明するという最も楽な、ストーリ作りが成されてました。ただ、これは、少々、無責任であって、過去のファシズムなどのリスクを将来に残しますし、心理学では、「おらが村根性」や「村八分」に陥り易い危険性もあるのです。まず、何を根源にするか、もっと、良く考えるべきだというのが、1985年ごろ、文部省に、要望したかったことです。例えば、生きるためには、戦いも必要なこともありますが、それが最初の選択ではないことを、愛国心によって説明できるでしょうか?
また、現在、都心で見られる、タバコのポイ捨てや、道路などへの家庭ごみの投げ捨てが問題になってますが、これは、「おらが村根性」に起因すると聞いています。自分の庭に、ゴミをポイ捨てする人は、かなり少ないはずですが、道路にゴミをポイ捨てする人は、あまたおられます。
身近なことから、グローバルなことまで、建前と本音が複雑に絡み合うのが現状であることは確かですが、より判りやすい社会になろうとする努力は必要であるし、そのような判断が出来ようになる能力を養っていくことも、肝心なことでおあると感じています。
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