たわごと: 2005年5月アーカイブ
YahooJapanニュース(昨日)を見ていたら、「ガン患者支援のHP特別仕様ノートPC!『LIVESTRONG』黄色リストバンドもセット」とか載っていたのですが、こんなのありなの? 1台売れるごとに、50ドルの寄付。。。
どうも最近、ソーシャル・ハザード(もしかしたら、ヒューマン・ハザードか?)をも感じる今日このごろ。
結局、大量消費時代、高度経済成長や団塊世代などを経験した世代が、企業の中でも、なりふり構わず、仕事オンリーで生活してきたあおりを、現代、まさに受けているのであろうか。最近、「愛社無罪」のような錯誤を持ってしまった企業のトップが、背任などで、お縄に着くことも、このせいとも思われる。結局、会社生活で本来、必要なことをなおざりにした部分のあおりなのである。最近のJR西日本の事故もそうであろう。全く、作れば売れる時代が、人間を、ソーシャル・ハザード状態(人間性や社会性までをも放棄し、機械のように働くことに慣れきった状態)に陥らせたのである。これは、工場の工員のみならず、普通の会社員、はたまた、研究所の研究者、詰まるとこと、いわゆる、サラリーマンと同等とも感じる。
本筋は、顧客志向であって、お客の欲するものを提供し、社会に貢献することが企業の1つあり方であるが、全く持って、作れば売れる時代は、お客の欲するものを理解する力を、人間から奪ったのであろうし、まさに、新たに入社する新人にも、仲間になれと、襲いかかるのであろう。社風というでたらめな理解を強いるのかもしれない。結局、金太郎飴化してしまうと、回復は、難しい。日本国民として、社会人として、社員として、なすべきことを成すことだが、決して、決まりごとや、上司の命令を、そのまま聞き、実行すること、つまり、内向き志向(サラリーマン)ではない。顧客志向(外向き志向)の考え方は、全ての社員が、お客の方向を向いて仕事をする体制であり、上司と部下の関係は、そのための能率をあげる1つの手段でしかない。
外向き志向にあって、初めて、個々の社員が、向上サイクルを生かし、連携して機能する組織となる。この向上サイクルには、安全衛生、遵法、能力向上などなど本来、社会人としての教養や専門技術を高める強者(ビジネスマン)の和となり、その組織が、強い企業となる訳である。
問題は、外向き志向の原理原則を理解(身に付ける)する機会が、平等でないこと、既に、内向き志向にいる人材には、気が付きようがないことであり、気が付かせるためには、割り切って、劇的変化を、与えるべきなのかもしれない。これは、諺でいうところの「馬鹿は死ななきゃなおらない」がぴったりする。内向き志向で、倒産しそうだったら、今までのしがらみを、いっさい捨て去り、いちからやるなおせる環境を、社員の誰にも、用意することぐらいが、救いの道かもしれない(;_;。
造語を考えました。「コヒーレント・ビーイング」です。これは、人間の群集行動において、群集を構成する人間が同じ行動を取る状態で、人間の性とも感じるものです。なお、ここで言う「群集行動」は、広い意味で、社会に暮らす人間の日常な行動も対象です。「コヒーレント・ビーイング」には、意識的なものと、無意識的なものの他に、ステレオ効果によるものなど、幾つかの形態が考えられます。
さて、面白いのは、過去の画一化教育や、高度経済成長時代の労働者教育の賜物として、個人が独自の判断で行動していながら、群集としてみると、ほとんどの個人が、同じ行動を取るような状態を起こす傾向にあると思います。これは、ステレオ効果とも大分異なる様相です。
「コヒーレント・ビーイング」の観点では、JR西日本だけではないと思いますが、安全ボケや平和ボケは、組織において、構成員全体に、同程度に起きていると思われますし、ほぼ、日本全域で、国民に起きているとも感じています。ただ救われるのは、全ての人間が同じ行動を取ったとしても、現実的には、全員が同時に事故にあったり、災害にあったりはしないので、まさに、故人曰く「他人の振り見て我が振り直せ」によって、問題の把握と改善がなされる訳です。まずは、何が起きても、他人事と考えることなく、貴方も同じ行動をしていたはずと、鏡に映る貴方自身と思い、「我が身を直せ」なのです。
これは、たわごと的雑談。
【オリジン】
太古の昔、人類は、情報の伝達に、鳴声やジェスチャーによる動物的な手段から、より伝達する情報の精度は向上するよう言語としての体裁を確立し、それと同時に、洞窟の壁や意思などへ、情報を記録するすべをも手に入れた。最初は、人、動物を模ったラフな線描がであったところから、情景を説明するペテログラフへ、更に、言語と対応付けされた、文字へと進化してきたのである。更に、文字が普及すると、その文字を使って、歴史や事実を記録するだけでなく、虚実であるところのフィクション小説のような文学の記録手段としても利用されてきたのである。このころから、情報の記録手段を介すことで、虚実も事実と同様に記録されることに気が付いた人類には、驚くべき素養を感じあるのであるが、人類は、その営みで、現代までに、色々な、作品を、レリーフや紙に残してきたのである。
【リローデッド】
まあ、何らかの文学において、文字や本は、記録手段として、また、閲覧手段として、使われていた期間は、それが、例えば、「本=文学作品」とも、倒錯するほど、長いものであったが、本来、そうではないし、もっと良い記録手段があれば、それが良いともう物なのであるはずであろう。また、この文字を、そのまま記録する文化は、現代における本の文化とも言えるが、日本の現代にあって、本を読まない世代と言われ、出版業界が危機的状態にも陥っている。
そもそも、文学作品の作者が、読者へ伝えたいことが、正確に伝われば、それが本である必要は、特にないはずであり、必要ならば、本を選択しても良い程度のものであろう。このバリーエーションの可能性は、過去、写真、映画、ビデオなどの映像や音声による記録手段を、現代において、確固たる芸術作品としての地位を確立したものであろうし、このような手段の多様化は、それぞれ視聴者の嗜好で、浮き沈みを発生させることは、逃れられないのであるし、どれが1つが価値の高いものと位置付けることも、ナンセンスな話である。
さて、最近になって、普及しているパソコンや携帯電話も、文学作品の記録手段や閲覧手段として、有効な手段としての可能性を見せてきているのである。最初は、ゲームとしての作品表現する手法であったと記憶しているが、現在に至っては、小説を、紙芝居的に、イラストと音声で語るインラクティブなマルチメディア・コンテンツとして制作するジャンルが、特に、ライトノベル系では、主流になっていると感じているのである。ライトノベルにおいては、紙である書籍の販売も好調であり、昨年後半には、文字データの配信が主な、携帯電話向け配信も好調と聞くのである。
結局は、読みたい作品があれば、メディアを選ばず売れるということに他ならないが、その作品にはまらさるには、もっとも読者として期待する年齢層が、閲覧手段として、気軽に使えるメディア選択されなければ、売れるものも、売れないことは、確かである。
【リボリューション】
最後に、未来に期待する「リボリューション」は、何であろうか、生きているうちの起きるものであれば、見てみたいものである。